妙廣寺の歴史
History
法布山 妙廣寺 600年の時をご案内します。
真言僧日祥、法華に改宗
当山は山号を法布山、寺号を妙廣寺といいます。伊豆玉澤妙法華寺(静岡県三島市)の末寺で、その縁か伊豆大権現が当山鎮守として勧請されています。
発祥は詳らかではありませんが、室町時代初期應永2年(1395)、もと真言宗の僧と云われる日祥と名乗る僧が、法華に改宗して西長鳥山本の地に一宇を構えました。現在その付近には妙廣山真珠院という真言宗の寺があり、その由縁か法布山妙廣精舎と称して布教を始められたと伝えられています。
北条毛利氏家老
小黒登之助の帰依
その後数次の変遷を経て、天正元年(1573)北条城主第11代北条高広、第12代景広の家老であった檀頭小黒登之助の寄進により現在の広田の地に移転建立されました。
天明元年(1781)5月20日、第20世圓那院日関のときに、豪雨による山崩れのため堂宇のすべてが損壊埋没しましたが、当時は天明の大飢饉のためすぐの再建は叶わず、6年後の天明7年より3年の歳月をかけて現在の本堂等が再建されました。
歴代の功績
文久年間(1861~5)には近傍の金倉山腹で原因不明の病気が流行し、それを鎮めるため第26世智勧院日功は山頂に山神金倉威神明王を祀って地域の安全を祈念し、現在も毎年祭礼を行っています。
明治28年(1895)、第30世純厚院日濤村山智全は、私塾「四恩報学舎」を設立して地域の子弟教育に尽力されました。その功労顕彰の胸像が、昭和40年(1965)第32世純法院日秀竹岡智宣のときに門下生一同によって建立されました。
近年では、平成16年の中越地震、平成19年の中越沖地震の二度の震災により多大な被害を受けましたが、広く有縁の方々からのご支援により無事復興を遂げることができ、現在に至っています。
地域の信仰を集める
金倉神社
当山より約3㎞の登山道を登った標高360mの金倉山頂に金倉神社、通称「広田の金倉さん」が祀られています。
約150年前の文久年間、金倉山腹の耕作地での原因不明の急病・急死の発生により、恐怖の念を懐いた村民が当地を忌避するようになりました。そのことを憂いた当山第26世智勧院日功は、これを鎮めるために山神を祀ることを発起し、村民と協議を重ねました。そこで同山の山頂を選んで奥殿並びに遥拝所を設け「金倉威神明王」を祀りました。以来、居村・細越など当地に耕作地を持つ者が氏子となり、毎年春秋に祭礼を執行し読経祈念を行ったところ、次第に災いも去り村民も安堵するに至りました。
金倉山は年を経るにしたがい四方に参詣登山する者が増え、戦時中には出兵兵士が武勲と無事帰還を祈願したと伝えられています。その間、明治16年に建物の改築、昭和13年には多くの寄進により石造りの奥殿に改修し、昭和60年には遥拝所(現在の拝殿)を改修しました。近年は中越地震など二度の震災を受け屋根や狛犬などに損傷を受けましたが、平成18年の参道一部石段づくりへの改修と共に多くの方々の協力により復興を遂げました。